映画『花束みたいな恋をした』~どこにでもある話だと思える人が羨ましい
『花束みたいな恋をした』めちゃくちゃよかったですねー。
いつも通りネタバレしつつ殴り書きを。
この映画、何より完全に2人を「勝者」として描いている前半が効いていると思う。
正直、観ているときは最初「恵まれている2人が、運命のように出会って、あっさり結ばれただけじゃねえか」と思ってしまった。思ってしまった。
絹は惜しげもなくブログ用のラーメンの写真を撮れるし、久しぶりに会った人に「こいつ誰だったっけ」と思うくらいにデートしまくりだし、数合わせで西麻布の怪しいカラオケ店のような気がしないカラオケ店にも出入りしている。
麦は「自分がストリートビューに映りこんでいる」ことをクラスメイトに伝えて回るし、ちょっと気になっている子に誘われれば、その子以外誰も知り合いがいないカラオケパーティにも突撃する。
ビビるくらい自分を持ってるし、揺るぎない自分でいる人たちなんだなと感じた。*1
そんな2人が居酒屋で対峙するシーンの麦の最初の挨拶が「好きな言葉は、“バールのようなもの”です。」ってもう参りました以外の感情が思いつかない。
全能感あふれているような、圧倒的勝者の2人の話。
雲の上の交差点の話。
そして、いかにもなカルチャー固有名詞が次から次へと出てくる。
出てきた本や漫画については全くの守備範囲外(かろうじて柴崎友香くらい)なので特に言うことはないが、映画に関してはあーあの時代っぽいなあなんて思い出す。2015年1月時点の直近で観た映画に『自由が丘で』『毛皮のヴィーナス』を出してくるセンス。*2
ウディ・アレンの「私を会員にするようなクラブには入りたくない」*3じゃないけど、頭抱えたくなるほど逃げ出したくなる映像だった。
これで、自分が生きている日本が舞台じゃなければそれこそ『ビフォア・サンライズ』のように楽しく観られるのだろうけど。
ただ、始まってしまったあとからの落差がズドンと来る作りになっている。
こちらが勝手に勝者と思っていた2人は、生活するために夢をいったん置き去りにしたり*4、就活にのめりこんだりする中で「普通」を追い求めてしまう。
普通になるのが難しいと思ってしまう。
あんなに勝者だった、間違いなく勝者だった2人が、あの全能感が、どんどんなくなっていく。
あの映画が面白くて、あの本が面白くて、そんなことだけで、特別で、よかったはずなのに、どこにでもある「みんなこうだよ」になっていく。特に麦。
そこが観ていて一番きつかったかもしれない。
なんかこう書くと、山戸結希監督作『溺れるナイフ』みたいだな。
全然違う話なのに。
「みんなこうだよ」理論で諦めることが悪だと言っているわけではなく、この2人に「みんなこうだよ」理論は無理だった、ということなのかもしれないなんて考えた。
「みんなこうだよ」理論でうまくいった経験がある人は多いと思う。でも、あのファミレスのシーンで、あの画を見せられて、うまく行くと確証を持って言える人が果たしているのか。
あのとき、運命的なものを感じてしまったからこそ、「みんなこうだよ」理論に縋れない。
考えれば考えるほど、せつない。
結果的に、始まりと終わりを描き切る作品になっているなあという感じだけども、2015年から2020年をさまざまなカルチャーと歩いてきた人間にとっては、そのカルチャーと自分との向き合い方を振り返らざるを得ない作品だろうと思っている。
何のために映画を観ているのか、本を読んでいるのか、テレビを見ているのか、ラジオを聴いているのか。
やるべき仕事に熱心に取り組んだ分、無の表情でパズドラをするのと何が違うのと問われると難しい。
優劣なんてあるのかなあとか。
誰かと歩幅を合わせるためにやっているだけならそれこそ必要ないものだよなあとか。
考えすぎですかね。
この映画に「自分もそうだった」と言える人が羨ましい。
どこにでもある話だと思える人が羨ましい。
いまだに僕は、どこにでもないことであってほしいし、自分はそうなりたくないと思っているから。いろんな意味で。
どっかに花束落ちてないかな。
というか花束って用意するものだな、そういえば。