Run and Gun

ひたすら書く。

『寝ても覚めても』という映画体験

だいぶ前に観た映画だが、寝ても覚めてもがとても良かった。
エンドロールを見終えて席から立ち上がれなかった映画は久々だった。

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詳しいあらすじはもういろんなところで延々と語られているので割愛するが、姿形の似た2人の男を過去と現在と未来の間で揺れ動く女性を描いているとでも言えばいいだろうか。
うまく言葉にするのがとても難しい話だけど、要は選択と行動の話で、すべての流れていく人間関係への鎮魂歌のようなものだと解釈している。

 

突然だが、よく映画の感想として「感情移入できないので好きじゃない」というワードが出てくることがあるが、個人的には感情移入ってそんなに大事か?と思うことがあって。

映画の登場人物が観ている客の意思通りに動いてくれる訳なんてないじゃんと思っている人間なので、むしろ「なぜそう考えたのか?」を深掘りしていくことが映画を観る醍醐味なんじゃないかなと思っている。

もちろん、自分でもこうしたんだろうな、となることも多いけれども。自分の想いとスクリーンの中の行動が一致した時の高揚感は説明するまでもないが、相反した時の予想外の転がり方に心を動かされてしまうことも同じくらいある。

 

話が逸れてしまったが、この「寝ても覚めても」を観ていて考えたのは理屈とは全く別のところで動いてしまう人間の悲しい性のようなものと、それすらすべて含めて人生なんだという力強さのようなもの。

多くの人が指摘しているように、終盤に向かっての朝子の行動に嫌悪感を示す人も多いだろう。5年という月日を経て、なぜ過去のキラキラした思い出の中の人に逃避してしまうのか。そう考えてしまうのも無理はない。

だけど、実は気持ちは分からなくないところもある。理屈だけであれば、あそこでしっかり亮平を選んで、正しい結婚をして正しい生き方をして正しい最期を迎えるのが正しいんだろう。だけど、この世界はそんなに単純じゃない。

正しくないことを自ら進んで選んでしまうことはないか。少なくとも自分にはある。だから、どうしても、この映画を愛しく思ってしまうのである。

 

我々にだって1つや2つ、「あのときあそこでああすべきだったな」ってことはあるだろう。この映画はそれをものすごく極端に描いているように感じる。

その選択で失う友人もいる。愛も失う。何かを背負わないといけないのかもしれない。でも、それでも、まだ諦めきれないようなものもある。

それが最後の長回しのシーンが表してくれている。間違いを許容するわけでも、突き放す訳でもないあの時間。

 

この映画は、今まで起きたことを川に例えるラストへ繋がる。

「きったねえ川」「だけど、きれい」このやり取りで話は幕を閉じる。
tofubeatsの素晴らしい曲に乗せて観客は自分の川に想いを馳せて帰途につくことになる。
本当に素晴らしい映画体験だった。

 

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