映画「ピンクとグレー」を観て
ちょっと前になるけど、映画「ピンクとグレー」を観た。
「62分の仕掛け」というキャッチコピーが話題になっているけれど、それに惹かれて見に行った人も、原作好きの人も、ジャニーズファンも、すべてにおいて賛否両論を巻き起こしている。
僕としては結構好きな映画だ。
※あからさまなネタバレはしないけれど、勘のいい人や原作を読んでいる人はすぐ”仕掛け”に気付きそうなので未観の人は注意。
観ていたとき、僕は前半と後半で一気に世界が変わるように見えるけど、実は伝えたいこと自体はそんなに変わらないなあと感じていた。なんでだろうと考えると、原作のエピソードを時系列(というか、出し方)を大きく変えたうえで、終盤は原作で伝えたかったことを映像的に分かりやすく見せるということに挑戦しているのかなと感じていたからだろう。実際に観進めていくうちにそれは確信に変わっていった。
確かに「62分の仕掛け」が終わった後は世界の仕組みが変わってしまうけど、前半のいかにも作られた感に正直ぬるいなあと思いつつ観てたのでその仕掛けで『そうだよ!こっちが本チャンだろ!』となったのであった。*1
原作で最初から最後まで一貫している何かに取り憑かれたかのように白木に縋り続けるときの気持ちもしっかり前半も後半も満遍なく描写されている。*2
主人公の大貴は最後まで親友の真吾の死因を探り続ける。分かろうとする。分かるだろうと思っている。「62分の仕掛け」の後も、ひたすらに真吾の足跡を追おうとする。
観終わったあとにどうしても想いを巡らせてしまうのは”結局のところ、「分かる」ということはどういうことを示すのだろうか”ということである。
以前、「表裏問題」に触れたけれども、表を100%知っていることが「分かる」ことなのか、表はどのくらいか分からないけどその人の”裏”と思えるような部分を少しでも知ることができれば「分かる」に近づけていることなのか。
じゃあどこまでやれば「分かる」になるのか。その境目は?定義は?掘れば掘るほど、迷路に入っていく。
だから、考える。
「分かる」なんてことは正直無理なことであって、「分かり合う」なんてのはもう完全に不可。ただ、ひとつだけ可能性があるとすれば、お互いが「分かり合いたい」という気持ちを同じ尺度で持っているかじゃないだろうか。要は謙虚な気持ちが大切ということだ。*3
今作にも出てくるように生きていれば誰にでも嫉妬やら憎悪みたいなものは生まれてくるわけだけど、その感情も結局はその対象を「分かる」と信じ込んでいるせいで生まれてくるんだろうなーとか。
分かってると思うから、「僕でもできる」と思ってしまう。分かってると思うから、「なんで僕じゃない」と思ってしまう。そういう思考の仕組みを最後の最後でぶっ壊してくれるから、ああこの映画好きだなあ、なんて。
終盤の大貴と真吾の対峙を観ながらそんなことを考えていましたとさ。
そういや、エンドロールのアジカンの曲もそういうことを描写してくれているんだろうなとか思っている。良い曲だよね。
それにしても菅田将暉と夏帆が凄すぎる。この2人の存在が「62分の仕掛け」には必要だったんだろう。ブルーレイ出たら買おうかな。