Run and Gun

ひたすら書く。

朝井リョウ「武道館」を読んで

世間でアイドルファンの間で阿鼻叫喚・賛否両論となっている朝井リョウ「武道館」を読んだ。最新号のダ・ヴィンチ朝井リョウ高橋みなみが対談をしたり、乃木坂メンバーが感想を座談会で言い合っていたりしておりそこでは「かなりリアルだ」と言う話で持ち切りだった。また、作家座談会での朝井リョウハロプロ知識の豊富さに「すげーなこの人」と思ったのも事実である。*1

 

あらすじなどはここに特に書く必要もないだろう。アイドルである主人公が「一般的な高校生」と「夢を与えるアイドル」の2つを並行しながら生きていく過程が描かれていく。

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読み終わって率直に思ったのは、「じゃあ、表ってなんなんだ?」ということだった。「普通ってなんなんだ?」ということを昨年の今頃は必死に考えていた記憶があるが、今年はどうやら表裏について考えなければいけないようだ。

 

アイドルである以上、表というのはおそらく「世間に見せている姿」なんだろう。そして裏は「その周りにいる大人達との関係性」かもしれないし、もしかしたら「アイドルである時間以外の生活」かもしれない。でも、本当にそれが純粋な答えなのだろうか。

 

少し話は変わる。

2012年にいろいろな人たちを阿鼻叫喚させた「Documentary of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る」という映画がある。一部で「戦争映画だ」とまで言われたこの映画はAKBが巨大化していく中、その裏側にいるメンバーやスタッフ達の動きを追ったドキュメンタリーである。僕もこの映画には凄い衝撃を受けたし、裏ではこんなことがあったのか!と思ったが年を経て徐々に考えが変わってきた面がある。

 

あの映画で「裏側」として見せられた以外にも裏側はいっぱいあるんだろうな、と思い始めたのだ。そして、自分では驚くほどその裏側を知ろうとは思えなかった。あそこにあった裏側は「表」であり、あの映画に描かれなかった裏側は「AKBの活動の裏側」のさらに裏側であるからだ。そこを知って楽しめると思えるような感情は自分にはなかった。それを「表」にとらえる感性もなかった。

 

僕が思うに「裏」と呼ばれるものも何らかの形で表に出た時点はそれは「裏」ではなくなるのだ。「裏側をスクープ!」と言ったって、スクープされて週刊誌に載った時点でそれはもう「表」なのだ。だって、みんなが見た時点でそれは「表に出た」ことになるのだから。そしてその「裏側をスクープ!」する過程で誌上には載らなかったさまざまな出来事…それが新しく「裏」になるんではないだろうか。

 

人はどうしても裏側を知りたがる。そんなに綺麗なわけがないだろう、あるいは汚いわけがないだろうと。そして「隠れている本音があるはずだ」と。でも、その本音も口に出した瞬間に表になってしまう。じゃあ、本音を口に出すときに取捨選択され捨てられた要素は果たして本音なのだろうか。*2

 

どんなものにも結局表と裏はつきまとうものだ。だから「この世はそんなに単純じゃない」し、「ラスボスはどこにもいない」*3どんなに幸せな瞬間にも裏はあって、そんなに切ない瞬間にも裏はある。幸せな瞬間の裏にどうしようもなく悲しい気持ちを抱えているかもしれないし、切ない別れの裏にどうしようもない喜びがあるかもしれない。同様にどんなにストレートな告白の言葉にも裏はあるし、飲みの席でポロッとこぼしてしまう言葉にも裏はある。だから、裏を追い求めていっても満たされることなんてないんだとすら思う。そして裏を殺し尽くすことも無理なんだろう。

 

話は前に戻るが、アイドルにとっての表は「アイドルという確固たる存在」なんだと考える。「武道館」を読んでアイドルという存在は「確固たる表」なんだということを悟った。アイドルという存在は夢を与えてくれる。笑顔はかわいいし、おしゃれな服を来て、僕たちの退屈な日常を打ち破ってくれるような歌を歌ってくれる。だからこそ、その裏で彼氏がいたりする現実に本気で怒る人も分かる。裏側を知ろうと必死にアップされた画像を細かく分析したい人がいるのも分かる。その「確固たる表」に少しでも隙を見つけたいという気持ちは誰にでもあるはずだ。一種の嫉妬に近いかもしれない。だって、僕たちにはそこまで確固たる表はないんだから。

 

「武道館」の中で、メンバーが芸能生活に慣れすぎてバッシングに怒りの感情すら湧いてこないというくだりがある。主人公はそれを「おかしいよ」と一蹴する。その通りだと思う。アイドルじゃない僕たちだって、酒の席で不満を爆発させたりすることはある。たとえ誰かから「良いやつだな」と言われていたって。そして、その不満爆発の瞬間の裏にも「何か」を抱えて生きている。

 

アイドルという「確固たる表」がある人たちには裏があってほしい。裏で”普通の”青春を送っていてほしい。*4裏で別の夢を持っていてほしい。裏で大切な何かを持っていてほしい。そして、それを僕は知らないでいたい(だって、知った時点でそれは「表になってしまうから」)。週刊誌にもテレビ番組にも見つからないところでしっかりと育んでほしい。確固たる表があるからこそ、その裏は誰よりもキラキラと輝くはずだから。

 

僕は残念ながら純粋なアイドルファンではない。現場には行かないし、知識もない。面白いと思ったテレビ番組を見たりとか、CDを聴いたりMVを見たりするくらいだ。だからこそ、この小説を読んで考えたのは「アイドルはどうのこうの」ではなくて、「確固たる表を持つ人の裏はキラキラ輝いているはずだ」だった。だから裏があってほしいとすら願ってしまう。

でも、それはそれで意味のあることだと思う。読んでよかった。

 

…なんて文章にもまた別の「裏」があるのかもしれない、なんて気になってしまうのが人間なのかもね。

*1:僕は全然知識ないです。

*2:世界中にあるドキュメンタリー論にも繋がりますね。

*3:

www.youtube.com

*4:Base Ball Bearの「二十九歳」における世界観的な意味で。