Base Ball Bear「C2」を聴いていろいろ考える
Base Ball Bearの新譜、「C2」を聴いた。そしてこれがまた、非常に考えさせられる作品であった。今までのアルバムとリンクしている部分も多々あるけれど、そこがまた魅力でもある。
僕はこのアルバムを一周聴いて「考え抜くこと・感じ抜くことがこれからの僕たちの武器になる」という一言が浮かんできた。前作・前々作のようにコンセプトを作り込んでいない本作だが、今作は聴く側を考え抜かせる仕組みに溢れている。
例えば「カシカ」。一聴して歌詞の内容をすべて分かる訳ではないし、歌詞カードを眺めても明確な答えは書いていない。だからこそ僕らは考え抜く。音を聞いて。文章を読んで。何を意図して、何を描いているのか、何とリンクするのか。考えて、考えて、考える。そして感じて、感じて、感じ抜く。そんな歌だ。
みんな、分かりやすい答えを欲しがっている。だからロックフェスでは何も考えず右手を振り上げる4つ打ちロックに熱狂する。あの場では右手を振り上げるのが明確な答えだから。でも、本当にそれだけ?本当に?っていうのは常に思っているし、そこを考え抜くことが今の僕たちには求められている、そんな気がする。*1
僕個人の話になるが、最近映画を観て自分の感想をTwitterに書いた後にネット上の感想を漁るようにしている。そのときに凄く思うのが、「そこは自分で考えないといけないとこなんじゃないの?」ということ。果たして「分からない」こと=ダメなこと、なんだろうか。考えた結果が”つまらない”なら分かる。「分からない」なら「考える」ってプロセスが次にあって、その結果なんらかの感想が浮かんでくるんじゃないかなあと。思考停止って、すごくもったいないと感じてしまう。そんな僕にとってはすごく武器になる曲だなあなんて思う。
そして毎回、Base Ball Bearのアルバムといえば終盤の作り込みの周到さが凄い。今回もラストの「HUMAN」→「不思議な夜」→「「それって、 for 誰?」 part. 2」の流れには否が応でもぐっときてしまう。目の前にある他人の祭り/自分の祭りをいろんな方向から考え抜いて、感じ抜いて、自分で決めろということを僕たちに伝えてくれているようなそんな感じがしてならなかったからだ。「HUMAN」が他人の祭りに右往左往する僕らの背中を押すとすれば、「不思議な夜」は自分の祭りに全力で乗っかる瞬間の1ページ。そこからベボベとしてのスタンスを歌う「「それって、 for 誰?」 part. 2」に繋がるところが、らしいというかなんというか。
でも、考え抜く/感じ抜くことは予想外に難しい。「どうしよう」で描かれているものなんて、正直どうしようもない感情だけど、それでも僕らは「どうしよう」と思ってしまう。しかし、その「どうしよう」という感情に用があるのだ。曖昧でもいいから、というより曖昧なものだからこそ大事にしなくてはいけないんだなあなんて思ったり。
そんな曲たちが並ぶが、アルバム完成後に「C2」と名付けたように全体の雰囲気やバランスは「C」に近い。ふたつの共通点は「共」という漢字だ。
「C」は青春の1ページを切り取る描写が多い。それに”共感”した人たちが多かったから、Base Ball Bearはここまで来た。「C2」はむしろ”共考”だ。さまざま視点から物事を考えることの真っ当さを僕たちに突きつけてくれている。そして、それは何よりも美しく、どこか美徳のようなものを纏っているようにも思える。*2 その意味で、この2つのアルバムが同封されている「C2」という作品は考え抜くこと・感じ抜くことを賞賛しているのだ。
LITTLEの3rdアルバム『”Yes" rhyme-dentity』に『足跡の中を旅してる feat. CUEZERO, 童子-T, Mummy-D』という曲がある。その曲のMummy-Dのヴァースこそが現在のBase Ball Bearの立ち位置と重なっている気がするので歌詞を引用する。
肩にくい込むザックのベルト タフなブーツで大地を蹴ると
わき上がる土ぼこりとスウェット ツバと涙と誇りの結晶
確か当初は見渡す限り 足跡もない荒野のラビリンス
力尽きたあの頃のファミリー 先で待つぜ して気なリハビリ
ふと気付くと足元に轍
たどりついたオアシスに Wanna-Be’s
What the fuck! 左向きゃハイウェイ 右向きゃバイパス
便利な時代でございますが
こっからが勝負だ引き下がんな
共に残そうFoot steps in savanna
食らいついてきな夢中で
ちなみにオレはこのコース2周目 You understand?
そうだ、Base Ball Bearは2週目に入ったのだ。今までの月日を通じて「C」から「C2」にまで辿り着いた。そして、今後もBase Ball Bearはハイウェイにもバイバスにも乗らずに僕たちを考え抜かせるための道を進んでいくはずだ。
映画館と”考え抜くこと”について
映画館で映画を観るという行為がもの凄く好きだ。
今年の僕の個人的な目標が「月に映画館で映画を10本観る」であり、結果的に10月まで毎月10~15本はコンスタンスに映画館で映画を観ることが出来ている。
行くのは主に新宿・渋谷の映画館が中心だが、公開館やその日の予定に合わせてどこへでも行く。例えば有楽町であったり、お台場だったり、豊洲だったり、時には横浜まで行ったりする。
そんな風に3~4日に1回は映画館に行く中で思うのは、僕は映画館という場所が凄く好きなんだということである。アバウトだけども。
基本的には映画には1人で行くと決めている。たまに誰かと行くこともあるが、相当信頼している人としか行かない。
なぜかというと、映画館にいるときは映画にだけ集中したいからだ。
映画館にいるときは映画のこと以外本当に何も考えなくていいんだなって思わせてくれる。真面目にしないとやべーなーとか周りの人みたいにちゃんとしないとなーとか日々積み重なる焦燥感を全部思考の彼方に追いやってくれる。
黒い箱の中に閉じ込められて、スクリーンの方を一斉に向いて物語に想いを馳せる一連の流れにただ身を任せて過ぎる時間が嗜好なのだ。
日常で、ただただ1つのことを考え抜いて考え抜くことってなかなかないのではないだろうか。だとすれば、僕が映画館のスクリーンの前で過ごす2時間前後こそが”考え抜いて考え抜く”ことなのかもしれない。
場所がシネコンでもミニシアターでもそこは一緒で、周りがカップルで溢れていようが、僕以外が全員50歳以上だろうが、僕以外全員女性だろうが関係ないし特になんとも思わない。むしろ其のバイアスがかかった状態で映画を観れるという状況に感謝したいくらいだ。
そこで考えることやふと想いを巡らせたことが絶対どこかで意味を持ってくるんじゃないかと信じているから、今日も僕は映画館の中という人間交差点に立って物語を楽しむのである。
今更「ビリギャル」を観て考えたこと。
ビリギャルを今更観た@渋谷HUMAXシネマ。
5月公開の映画を月曜昼から渋谷のど真ん中で観るなんて世捨て人しかいないだろうと思ったら若い子も含めて20人くらいは入っていてびっくり。
そういえば夏休みか、と気付いたのは上映後。
ということで最初は冗談半分で見に行ったのも否めないのだが、これが実はなかなか考えさせられることになった。
正直なところ、ギャルが慶應大学に入りました!つっても「地頭のある人が目標を持って勉強して普通に合格した話」なので映画としての真新しさとかない。
超シンプルだよ。
そして、所謂進学校的なところ通ってた人ならよく分かると思うけど、不良気取った人とかが普通に東京大学行っちゃったりするからね。*1
成績的に下から数えた方が早かったヤツが高3の夏過ぎくらいから本気出してあっさり早慶合格しちゃったりだとかいうのも全然ある話だし映画にしなくてもいくらでもそんな例見てるよ!って話なのは否めない。
スポーツとか芸能とかに比べたら全然短期間で巻き返せるジャンルだしやる気さえあればどうにかなる。*2
まあやる気を出すっていうのがなかなか難しいわけだが。*3
それを知ってか知らずかこの映画自体は勉強のハウツーというよりは「まっすぐに受け止めること」をさまざまな軸から受け止めるドラマにシフトしている。*4
母親と娘、父親と娘、父親と息子、先生と生徒、親友。。
学生という立場に否が応でも絡んでくる関係性を、「慶應大学合格」という夢を持った少女を軸に描いていく話である。
なんで少女って書いたかっていうと、そもそも有村架純演じるさやかは言うほど「ギャル」じゃないんだよね。
どっちかというと天然少女というか。
グレてるわけじゃないし、金髪も最初に「夏休みの間だけ」とか言っちゃう始末。*5
エエ子やん!*6
そのエエ子が愛情を注いでくれる母親に支えてもらいながら、不器用な父親に反抗し、自分をくず扱いする学校の先生に逆いつつ、味方になってくれる塾講師を慕うというのがこの映画の7割くらい占めてるからね。
そのすべてを「まっすぐに受け止める」描写の数々とともに描いていくのが爽快で結構楽しいんだよねこれが。
正直映画というより連ドラ向きなんじゃないかとは思うけども。
そしてこの映画は「まっすぐに受け止めること」と「まっすぐ押し通すこと」は全くの別だというのもしっかり見せてくれる。
各所でまっすぐ受け止めたうえで自分の気持ち/意見を表現するっていうシーンが結構出てくる。
うまくいかないからって押し通すんじゃなくて、まるでスライムのように変幻自在になって通り抜けていく姿勢が実は重要だって言わんばかりに。
ビリギャルって映画は、「まっすぐ押し通すこと」を否定しつつ、「まっすぐ受け止めて、しっかり通り抜けること」を僕たちに伝えている気がしてならない。
それもそれでなかなか難しいのは百も承知だけど。
朝井リョウ「武道館」を読んで
世間でアイドルファンの間で阿鼻叫喚・賛否両論となっている朝井リョウ「武道館」を読んだ。最新号のダ・ヴィンチで朝井リョウと高橋みなみが対談をしたり、乃木坂メンバーが感想を座談会で言い合っていたりしておりそこでは「かなりリアルだ」と言う話で持ち切りだった。また、作家座談会での朝井リョウのハロプロ知識の豊富さに「すげーなこの人」と思ったのも事実である。*1
あらすじなどはここに特に書く必要もないだろう。アイドルである主人公が「一般的な高校生」と「夢を与えるアイドル」の2つを並行しながら生きていく過程が描かれていく。
読み終わって率直に思ったのは、「じゃあ、表ってなんなんだ?」ということだった。「普通ってなんなんだ?」ということを昨年の今頃は必死に考えていた記憶があるが、今年はどうやら表裏について考えなければいけないようだ。
アイドルである以上、表というのはおそらく「世間に見せている姿」なんだろう。そして裏は「その周りにいる大人達との関係性」かもしれないし、もしかしたら「アイドルである時間以外の生活」かもしれない。でも、本当にそれが純粋な答えなのだろうか。
少し話は変わる。
2012年にいろいろな人たちを阿鼻叫喚させた「Documentary of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る」という映画がある。一部で「戦争映画だ」とまで言われたこの映画はAKBが巨大化していく中、その裏側にいるメンバーやスタッフ達の動きを追ったドキュメンタリーである。僕もこの映画には凄い衝撃を受けたし、裏ではこんなことがあったのか!と思ったが年を経て徐々に考えが変わってきた面がある。
あの映画で「裏側」として見せられた以外にも裏側はいっぱいあるんだろうな、と思い始めたのだ。そして、自分では驚くほどその裏側を知ろうとは思えなかった。あそこにあった裏側は「表」であり、あの映画に描かれなかった裏側は「AKBの活動の裏側」のさらに裏側であるからだ。そこを知って楽しめると思えるような感情は自分にはなかった。それを「表」にとらえる感性もなかった。
僕が思うに「裏」と呼ばれるものも何らかの形で表に出た時点はそれは「裏」ではなくなるのだ。「裏側をスクープ!」と言ったって、スクープされて週刊誌に載った時点でそれはもう「表」なのだ。だって、みんなが見た時点でそれは「表に出た」ことになるのだから。そしてその「裏側をスクープ!」する過程で誌上には載らなかったさまざまな出来事…それが新しく「裏」になるんではないだろうか。
人はどうしても裏側を知りたがる。そんなに綺麗なわけがないだろう、あるいは汚いわけがないだろうと。そして「隠れている本音があるはずだ」と。でも、その本音も口に出した瞬間に表になってしまう。じゃあ、本音を口に出すときに取捨選択され捨てられた要素は果たして本音なのだろうか。*2
どんなものにも結局表と裏はつきまとうものだ。だから「この世はそんなに単純じゃない」し、「ラスボスはどこにもいない」*3どんなに幸せな瞬間にも裏はあって、そんなに切ない瞬間にも裏はある。幸せな瞬間の裏にどうしようもなく悲しい気持ちを抱えているかもしれないし、切ない別れの裏にどうしようもない喜びがあるかもしれない。同様にどんなにストレートな告白の言葉にも裏はあるし、飲みの席でポロッとこぼしてしまう言葉にも裏はある。だから、裏を追い求めていっても満たされることなんてないんだとすら思う。そして裏を殺し尽くすことも無理なんだろう。
話は前に戻るが、アイドルにとっての表は「アイドルという確固たる存在」なんだと考える。「武道館」を読んでアイドルという存在は「確固たる表」なんだということを悟った。アイドルという存在は夢を与えてくれる。笑顔はかわいいし、おしゃれな服を来て、僕たちの退屈な日常を打ち破ってくれるような歌を歌ってくれる。だからこそ、その裏で彼氏がいたりする現実に本気で怒る人も分かる。裏側を知ろうと必死にアップされた画像を細かく分析したい人がいるのも分かる。その「確固たる表」に少しでも隙を見つけたいという気持ちは誰にでもあるはずだ。一種の嫉妬に近いかもしれない。だって、僕たちにはそこまで確固たる表はないんだから。
「武道館」の中で、メンバーが芸能生活に慣れすぎてバッシングに怒りの感情すら湧いてこないというくだりがある。主人公はそれを「おかしいよ」と一蹴する。その通りだと思う。アイドルじゃない僕たちだって、酒の席で不満を爆発させたりすることはある。たとえ誰かから「良いやつだな」と言われていたって。そして、その不満爆発の瞬間の裏にも「何か」を抱えて生きている。
アイドルという「確固たる表」がある人たちには裏があってほしい。裏で”普通の”青春を送っていてほしい。*4裏で別の夢を持っていてほしい。裏で大切な何かを持っていてほしい。そして、それを僕は知らないでいたい(だって、知った時点でそれは「表になってしまうから」)。週刊誌にもテレビ番組にも見つからないところでしっかりと育んでほしい。確固たる表があるからこそ、その裏は誰よりもキラキラと輝くはずだから。
僕は残念ながら純粋なアイドルファンではない。現場には行かないし、知識もない。面白いと思ったテレビ番組を見たりとか、CDを聴いたりMVを見たりするくらいだ。だからこそ、この小説を読んで考えたのは「アイドルはどうのこうの」ではなくて、「確固たる表を持つ人の裏はキラキラ輝いているはずだ」だった。だから裏があってほしいとすら願ってしまう。
でも、それはそれで意味のあることだと思う。読んでよかった。
…なんて文章にもまた別の「裏」があるのかもしれない、なんて気になってしまうのが人間なのかもね。